高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
     RSC来日公演 『マクベス』          No. 2000_08

昨年の11月16日から今年3月18日までストラットフォードで公演されていたアントニー・シャーの『マクベス』が、3月24日から4月8日まで東京グローブ座で上演されている。日本での公演を終えると、今度はロンドンのヤング・ヴィックで4月18日のプレヴューに引き続いて6月3日まで上演されることになっている。
ストラットフォードでの公演の評判が高く、アントニー・シャーのマクベスの激賞に大いに期待して観劇したが、その期待を裏切らない素晴らしい上演であった。
今回の観劇に当たって自分なりの見るポイントを定めていた。
その第一は、まず魔女がどのように演じられるか、あるいは演出されるかということであった。
見どころの押さえとしては、門番の演技、マクベスをダンカン殺しへと誘う幻の短剣の演出、バンクオーの亡霊を実際に舞台に出すかどうか、マクベス夫人が血の臭いのする手を洗う場面の所作と表情、そしてマクベスのトモロー・スピーチの台詞をどのように聞かせてくれるか、こんなところに焦点を絞って観劇に臨んだ。
そのほかには、演出にどんな解釈を付与してくるかも楽しみであった。
たとえば、バンクオーの暗殺に後から加わる人物の設定や、ロスをポランスキーの映画のように、二重、三重に寝返っていく人物にする、などのようなひねりを加えるかどうかも興味が持たれた。
実際の観劇では、休憩なしの2時間10分があっという間に過ぎる、非常にテンポの速い展開であった。
マクベスは一気に悪へと疾走し、一気に自滅へと駆け抜けていく。
圧倒する演技の迫力に、観終わった後、疲労感と虚脱感が押し寄せた。
期待の幕開けは、舞台両袖のミュージシャンが弦楽器の弓弦のようなもので、シンバルに鋸を引くように押し当てて金属的効果音を出し続けた後、雷鳴のドラムの音と共に舞台が暗転する。
真っ暗な舞台に三人の魔女の声。真っ暗なので声だけしか聞こえない。
意表をついた演出であったばかりでなく、その演出に納得させられるものであった。
舞台に実際に現れるよりも魔女の存在感がずっとリアルで、もうここで脱帽であった。
場の転換が原作に忠実で、それだけにスピード感があふれていた。
マクベスとバンクオーの戦場からの帰還は大勢の兵士を従えたことを象徴して、二人は人が組む騎馬に跨って兵士たちの歓声とともに登場する。この演出では、93年11月に同じく東京グローブ座でロベール・ルパージュが演出した『マクベス』で、シネマスコープ型にした舞台を上下二つに分断して下半分を隠し、上の部分だけにマクベスとバンクオーが馬に跨って進んでいる様子を表すという大胆な演出を思い出した。
ダンカンを殺害する時に現れる幻の短剣は実際には舞台に出さず、まさに空(くう)に幻をつかませ、見せないことでよりリアルとなっていた。
だが、この見えない短剣が最後のマクダフとの決闘の場面で、これまでにない演出で重要な役割を果たした。
マクダフは振り落とされた自分の武器の代わりに死んだ兵士から拾い上げた短剣をもってマクベスに立ち向かう。
マクベスにはその短剣がダンカン殺しの時の幻の短剣と重なって見え、幻惑し戦うことなくしてマクダフに倒される。
門番が登場する場面は、この劇でも息抜き、緊張をほぐす役割を果たす。
スティーブン・ヌーナンが演じる門番の演技はサービス精神旺盛で、地獄の大王ビエルジバブの名前を日本語で「悪魔の大王」と付け加えたり、’equivocator’を「二枚舌のいかさま野郎」と言い直したりして笑いを誘った。
また、イギリスの仕立屋の話から、アドリブで観客に英語で職業を尋ねる。男性の観客が和製英語で「サラリーマン」と答えると、最初は理解できなかったようであるが、「サラリード・マン」と言い直されたことで’office worker’の事だと理解する。これも愛嬌の一つであった。
門番の台詞そのものがシェイクスピア当時の時事的な問題を大いに含んでいて、当時でもアドリブで観客を沸かせたであろうことを想像する。
バンクオーの亡霊も舞台には登場しない。しかし、給仕係がワインを取りに引き下がると、その入れ替わりにバンクオーがさっと現れ、マクベスの前を横切るという細かいトリックに「うまい」と感じさせられた。
給仕係とバンクオーが二人とも坊主頭にしているのでその一瞬の入れ替わりは、マクベスの驚く顔がなければ気付かない。
アントニー・シャーのトモロー・スピーチはじっくりと聞かせてくれた。
非常にゆっくりと、噛みしめるようにして’Tomorrow….and…tomorrow’と続けていく。
分かりやすかっただけでなく、ひたすら悪へと突っ走ってきたマクベスへの同情をさえ覚えさせるのに効果的であったと言える。
グレゴリー・ドーラン演出の『マクベス』は全体を通して素直な演出と言えるが、最後で一つの解釈を吐露する。
マクダフから王冠を受け取ったマルコムの「スクーンでの戴冠式にこぞって参加してもらいたい」(小田島雄志訳)という台詞に続いて、マルコムを中心の軸にして、バンクオーと息子フリーアンスが対角線上に並び、魔女の予言の実現を表象するのがそれである。
これは、マクベスが自分の運命を確認するために魔女のもとを訪れた時、バンクオーの子孫がこの国の支配者となるのかという彼の最後の問いに対して、8人の幻影と最後の者が鏡を持って現れる場面がこの舞台では省略されており、その代わりに最後の場面でバンクオーとフリーアンスを登場させることで代用した演出とも言える。
以上、自分で予め見るべく定めたポイントについて振り返ってみたが、登場人物についていえば、アントニー・シャーのマクベスは言うに及ばす、ハリエット・ウオルターのマクベス夫人も非常に良かった。
気品と気高さを感じさせただけでなく、その強靭な精神がバランスを失う場面の演技もよかった。
バンクオーの亡霊に脅かされた宴会をお開きにした後、二人に必要なのは<眠り>であった。
しかし、眠りを殺したはずのマクベスは「俺も悪事にかけては小僧に過ぎぬ」と気を取り直すのに対し、マクベス夫人は独りその場に瞬時とどまり、ヒステリックな笑いをして顔を歪める。
そして、やおら立ち上がって、テーブルの上にある燭台を1本手に持って舞台後方へと退出する。この燭台を持つ姿は、マクベス夫人が夜な夜な起き上がって夢遊歩行する姿を先取りしている。
なぜ、マクベス夫人がこのような精神の破綻をきたしたかというのは一つの疑問であるが、それをヒステリックな笑いという形で、言葉ではないもので暗示しており、我々はそれを汲み取るだけで十分である。
存在感という点では、ケン・ボーンズのバンクオーも強烈な印象であった。
魔女で思い出すのは、バンクオーの亡霊が現れる宴会の場でマクベスと夫人が立ち去った後、その場にあったテーブルを勢いよくはねかえして三人の魔女が登場する。三人の魔女はテーブルを内側から支え、仰向けの姿勢で身体を前後に波立たせる。その揺れる姿が、竈の揺れる炎を想像させた。

英文のプログラムの口上の末尾に、この劇はまずその劇的パワーと、その言葉の美しさ、中心的人物の強烈さを味わうべき作品であることを強調している。
また、<劇的論争とか、扇動的宣伝ではないが、この劇が世紀末に当たっての、血にまみれた野望の共鳴を持っていることも否定できない>と語っているのは、先に観た笛田宇一郎の『グッバイ・(マクベス)二十世紀)の口上の二重写しの感がして興味深い。

(演出/グレゴリー・ドーラン、4月2日(日)14時開演、東京グローブにて観劇。
チケット:(S席)9500円、座席:I列14番)

 

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