高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
    『グッバイ・(マクベス)二十世紀』          No. 2000_07

シェイクスピアの芝居というより、演劇論試劇と言った方がよいだろう。
笛田宇一郎というストイックな俳優・演出家の、演劇原論の<素>なるものを、そのまま舞台で演じるという試劇である。
笛田宇一郎にとって演じるということは、肉体を様式にまで高揚すること、肉体を通して浄化された精神を表現すること、演劇が肉体による思想表現の媒体となっている。
舞台背景に、抽象的な模様の入った細長い三角形の抽象体が、五つか六つ並んでいる。これは後になって分かることだが、ガラスもしくは陶器製の物体を暗示している。それは、精神の破綻とともにガラスのように壊れていく。
中央には、登山用の太いロープが幾重にもなって上から垂れ下がっている。
そのロープの下には、腰掛け位置の高い椅子が一脚。
舞台の上には、他に竈(細作りの鼎のように見える)を想像させる物体が3つほど距離をおいて置かれている。
開演とともに舞台が暗転し、燭台を持ったマクベス(笛田宇一郎)が下手からゆっくりとした足取りで現れる。
例によって、能の様式を模した所作である。
『マクベス』の舞台はマクベス一人のみで演じられ、台詞もマクベスのものだけである。
「グラームズ、そしてコーダーの領主、最大のものがそのあとか」の台詞から、「やってしまえばすべてやってしまうことになるなら、早くやってしまうにかぎる」というダンカン王殺しに逡巡する場面から始まる。
短剣の幻想、そしてダンカン王殺害、マクダフ逃亡の知らせ、「明日、また明日、そしてまた明日と、時は小刻みな足取りで一日一日を歩み」と、一気に凋落へと駆け進んでいく。
マクベスが倒れた後、舞台には魔女の声、「きれいは汚い、汚いはきれい」の台詞で舞台の進行は一転する。
舞台の男は、「私はマクベス」であり、「私はハムレット」であり、「私はラスコリーニコフ」であり、そのほかの誰かであり、「私はマクベスではない」であり、「私はハムレットではない」であり、「私はラスコリーニコフではない」であり、またそのほかの誰でもない存在である。
男は神経を病んでいる。ノイローゼセある。だが、病んでいるのはそれを観ている観客の方ではないのか。
この劇が最後に投げかけてくる無言の提言が、「あなた(たち)は、病むことを忘れたか」と突きつけてくるものであると解することは、私の想像だけであろうか。
『マクベス』という劇は、この劇の大半を占めるノイローゼの男のモノローグの序曲のようなものである。
劇は、このノイローゼの男と、精神病治療の医師(らしき人物)の二人だけで進行するが、二人の会話に接点はない。
この劇の主張するところは、このノイローゼの男の口を通して代弁される。
男は食事中(カップラーメン)に突如もよおして食事をしている場所で大便を始める。
糞の臭いを嗅ぐことが存在の証。この思想(?)は笛田宇一郎の原点をなす哲学であろう。
人間は糞をすることで存在するという考え、哲学は、シリーズの第一弾として演じられた『私はリア王』にも同じ台詞があったと記憶している。
決して分かりやすい劇ともいえないし、面白い劇ともいえない。
演劇原論の<素>をむきだしに見せつけられるような劇であり、演出者の思い入れの強い劇であると言えよう。
その思い入れである<演出に当たって>(注1)の口上の意図がどこまで届くかが問題であろう。

(構成・演出/笛田宇一郎、3月4日(土)14時開演、両国・シアターX(かい)にて観劇。
チケット:3000円)

(注1) 【演出に当たって】
<近代がまさに始まろうとする時代に舞台に現れた"マクベス"という存在は、その後次々と名前を変えては、現実の歴史の舞台に登場しました。
ヒットラーやスターリンの名を出すまでもなく、二十世紀が"マクベス"の世紀であったことは、あまりにも明らかです。近代という歴史性が人間に強いる<生>の構造を、シェイクスピアは表現として先取りしていたのであり、二十世紀もまさに終わろうとしている今、現代の表現者に課せられている根本的なテーマは、"マクベス"に「グッバイ」できる可能性を、表現として先取りすることです。
そのためには、"マクベス"が最終的に行き着いた地点を確認できる力と、その地点そのものを反転させる力が要求されます。
この二つの力を演劇として造形できるかが、今回の舞台の演出に当たっての要諦です>

 

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