高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
    東京シェイクスピア・カンパニー公演 『リヤの三人娘』      No. 2000_019

 この物語はリアの娘ゴネリルとリーガンの、その後(死後の世界)の物語を通して、リアのその後の物語を語る。
 プロローグとして、三人の娘がリア王への愛の深さについて『リア王』の台詞で語る。
 コーデリアの「なにもない」という台詞で、リア王の怒りの声を表象する演奏の激しいギターの音で舞台は暗転。
 地上の世界から、地下の世界へと移り、ここは地獄。
 リアの道化が、ゴネリルとリーガンを探し求めてやってくる。その目的は、堕天使ルシファーの使いとして、ゴネリルかリーガンのどちらか一人を魔女として採用するためである。
 道化はヴェル(ギリウス)の弟子である地獄の小僧を道案内にする。
 そのゴネリルとリーガン。在世の悪の報いで、今や地獄の責め苦に苦しんでいる。
 来る日も来る日も666本の古釘をバケツに拾わされる。もう千年もそんなことを繰り返しているが、一日としてその666本を達成することはない。達成しなかった罰として、地獄の鬼どもからあらゆる責め苦を負わされる。
 そんな無意味とも言える日々の日課と責め苦から脱却できるのは、魔女となることしか道がない。
 しかし、魔女になれるのは二人の内一人だけ。
 その魔女になる資格は、いかに悪であるかが問われる。
 そこで二人は自分こそが悪であるということを道化の前で口を極めて競い始める。
 肉親の妹であるリーガンを殺した自分こそ悪であると主張するゴネリルに対して、そういう気を誘発させたのは他ならぬ自分であり、それゆえ自分の方がより罪深いと反論するリーガン。
 そこへ幻のエドマンドが登場する。
 二人は、今度はエドマンドへの愛のために、お互いに魔女になることを譲り合う。
 しかし、エドマンドは幻、二人が言い争っている間に消えてしまう。
 そして道化が言う。二人とも魔女になる資格がないと。
 そこでリーガンは、リア王は現われないのかと道化に問いただす。実は、二人の悪を競わせるのに、リア王を出現させて悪行を競わせるのが、魔女を選ぶ試験であると聞かされていたからである。
 道化はもうその必要性がなくなったと説くが、二人は承知しない。
 とそこへ、天国にいるはずのコーデリアが真っ白な衣装で現われる。
 このコーデリアは道化が地獄小僧に示し合わせていた役割だが、もう必要がなくなったのに現われたため、道化は一瞬ためらい、もう必要ないから引っ込めと指示する。
 しかし、どうもこのコーデリアは観客にとって本物のコーデリアのような気にさせる。
 道化の所作に気付かない(あるいはその振りをする)のだ。
 コーデリアは自分が天国から降りてきた経緯を姉たちに語る。
 父リアが天国に見あたらないので、天国の許しを得て地獄に探しに来たのだと。
 コーデリアは父が天国にいるものと思っていたが、姉たちはリア王が天国にいるはずがない、生前数々の悪行をなしてきたのだからと言う。
 ゴネリルとリーガンが語る父リア王は、プレ・リア王ともいうべき物語である。
 リア王がブリテン国王となる経緯はこうである。
 北の果ての海賊であったリアがブリテン国王に拾われ、寵愛されてその娘と結婚した。国王には三人の立派な息子たちがおり、次の国王は当然その三人の息子の長子がなるはずであったが、不幸にも一年の間に次々と事故や病気で亡くなる。だがその死については不自然なところがある。ゴネリルはリアが国王となるため、事故を装って三人の息子たち、そして国王を殺したのだと言う。その殺害を示唆したのは三人の姉妹の母であるとも言う。
 コーデリアにはそんなことは信じられないし、信じようともしない。
 そしてゴネリルはリアの妻である母にも疑惑を拡げる。
 それは母の不倫。そして母の自殺。しかしあれは事故であったのだろうか。
 誰かが母を井戸に突き落としたようであった。それは父リア王だとゴネリルは初め思っていたが、そんな筈はないことに気がつく。なぜなら、その時父はフランスにいたのだから。
 それでは母を古井戸に突き落としたあの小さな影は何?誰?
 コーデリアは古井戸の縁を、両手を拡げて抱え込むようにしてうつ伏し、絞るような声で母の潔白を訴える。
 しかし、母を殺したのはコーデリアではないのか?と思わせるようなミステリアスな疑念を抱かせる場面である。
 父リア王と母について語るゴネリルの物語は、語るうちにゴネリルにとっても本当のようになり、リーガンにも共有された記憶のように心理的な刷り込みが働く。
 ところで、コーデリアは父のリア王と母を天国に連れ戻すために地獄に降りてきたのであるが、地獄では数の掟があり、連れ戻すには地獄に残す身代わりが必要である。その身代わりにはコーデリアが地獄に残ると言う。
 では、母はどうする?母も地獄にいる。
 コーデリアは言う。自分のお腹には赤ん坊がいる。だから、数は合わせられるのだと。
 リーガンの態度が豹変して、悔い改めた気持でコーデリアに訴える。ゴネリルは驚くが、リーガンはお構いなく、しおらしい気持でコーデリアに自分のこれまでの事を詫びる。リーガンは自分がこの地獄から抜け出したいのだ。
 とそこへ、リア王(に化けた道化)が突然現われる。リア王は目が見えない。リア王はゴネリルとリーガンに自分の過ちを詫び、許しを乞う。ゴネリルもリーガンもそれを受け入れる。
 リアはさらに問う。コーデリアはどうだ?許してくれるか?と。
 コーデリアは一生懸命祈りにも似た言葉を矢継ぎ早につぶやく。リア王はリア王で見えない目でコーデリアに向かって叫ぶ。お互いの言葉が交わることなく、リア王は絶望の怒りに襲われ、コーデリアの首を絞める。その動作を見ていた二人の姉妹、ゴネリルとリーガンも絶望の淵に墜ちる。
 コーデリアが死ぬということは、地獄からの脱却、天国への道が閉ざされることでもあるから。
 絶望したゴネリルとリーガンは、永遠の責め苦としての古釘拾いのバケツをかかえて、すごすごと退場。
 首を絞めるリア王と、がっくり首を折って死んだ姿のコーデリアにしばし沈黙のスポット。
 コーデリアは地獄小僧の声になって、「旦那、これでよござんしたかね」とリア王の道化に向かって問いかける。
 首尾よくいったことで、道化は約束の金貨を小僧に与える。
 道化が演じたリア王とコーデリアの演技は、ゴネリルとリーガンの永劫の罪から救うためのものであったことも分かる。
 この物語の核心の一つは、<本心>と<真心>への問い、であろう。
 <本心>とは何か?自分が信じるところ、それが<本心>であり、<真実>であるとしたら、その逆説がゴネリルとリーガンであろう。二人には、思っていても口に出されないものが本心であるとしたら、そんなものは信用できない。だから二人は執拗なまでに自分の心の内をぶちまけ合う。だが、コーデリアは違う。思ってはいても口には出すまいとする。

 『リヤの三人娘』の上演記録をみると、初演が95年3月に渋谷のジャンジャンで、96年3月に仙台エルパークで、演出・出演ともに初演と同じに上演されている。次が97年9月で、山形県の櫛引町と三川町で上演されている。
 今回の公演は四度目で、東京シェイクスピア・カンパニーの10周年記念公演第一弾として、『リヤの娘・2000』と銘打って上演。初演から一貫してゴネリルを演じている奈良屋優季が今回もゴネリル役、初演では地獄小僧を演じ、前回はリーガンを演じた牧野久美子が今回もリーガン役、その他はこれまでと変わって、道化に今井耕二、小僧に清水由紀、幻のエドマンドに川野誠一が扮した。いずれも好演だが、なかでも清水由紀は、地獄小僧とコーデリアをうまく演じ分けて良かったと思う。

(作/奥泉光、演出/江戸馨、ザムザ阿佐ヶ谷にて、2000年7月29日(土)マチネにて観劇)

 

☆主宰者 江戸馨の声  −悲劇はコーデリアの無口から始まった−

 そこで、今回の「リヤの三人娘」である。まず第一の疑問。嵐の中、荒野をさまよったのち、いったい道化はどうなってしまったのか?
 物語はここから始まる。そして続く第二の疑問。なぜリヤの娘達はあれほどまでの悪逆非道ぶりを発揮しなければならなかったのか?第一の疑問は第二の疑問と絡み合い、さらに芝居の核となる第三の疑問へと結びつく。すなわち、末娘コーデリアは何者か?
 シェイクスピアの本編では、姉妹とは違い、心の清い、美徳を一身に備えた聖女のような扱いをされるコーデリアだが、父王リヤが「コーデリアが醜くみえた」とも語りもする末娘は、実のところいったい”誰“なのだろうか。
 シェイクスピアの書いたセリフを虚心に読むならば、彼女は無口ではかなげな乙女というより、辛辣なことも平気で言える頑固者とのイメージが浮かび上がる。「リヤ王」には頑固な正直者が二人登場する。ケントと道化である。
 シェイクスピアは、ケントを率直さを売り物にする居丈高に振る舞う「真実しか語れない者」であり、口先だけの愚かな廷臣より始末の悪い輩として、コーンウォール公(リーガンの夫)に非難させているのだ。
 真実しか語れぬコーデリア。これが今回の「鏡の中のシェイクスピア」ワールドへと通じる“穴”、現代風に言えばアクセスのパスワードである。
 どれが真実でありどれが虚構なのか、あるいはいっさいが仮想現実なのか。言葉の闇に蠢く絡み合った蛇のようなサイコ・ミステリー。当日は体調を整えてご来場下さい。
(「リヤの三人娘」チラシよりー鏡の中の「リヤ王」への“穴”−)

 

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