高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   俳優座劇場プロデュース公演 『ハーブ園の出来事』        No. 2000_018

 「神」という観念の薄い我々にはある意味では理解を超える領域もあるが、シェイクスピアの長女ス サナ(スザンナ)の真理について考えさせられる。真実とは何か。神がすべてを知っているなら、見せかけの真実より、心の真実に従う方がより真実であるのではないか。
 この劇は、あらゆる方面において興味の尽きない問題提起をはらんでいる。
 まず三面記事的に興味を誘うのが、スサナと隣人である小間物商スミス・レイフとの不倫の関係。
 スサナはジョン・ホールとの結婚前に婚約希望者が引きも切れないほどであったが、どれもここれも断るのに煩うことはなかった。ジョン・ホールとの結婚は誰もが祝福し、本人も感じるほど宿命的な結びつきで、絵に描いたような幸せな結婚であった。
 そしてその幸せのしるしが長女エリザベスであったが、二人の間にはその後、愛の結晶が生まれない。
 スサナは夫ジョンを尊敬しており、ジョンも妻を愛している。しかし、その愛はどこか平行線をたどっていて、スサナには満たされない気持ちが心の片隅にある。尊敬の情と愛情とは微妙にすれ違っていて、そんな心のすきま風を埋めたのがレイフである。
 レイフには心を病む妻がいて、レイフの心はいつしか敬愛する隣人の医師ジョン・ホールの妻スサナに心を惹かれていた。
 レイフの子供が患った時、ホールが懸命に尽くしたがその甲斐もなく子供は亡くなり、レイフの妻はそれ以後夫に心を閉ざしてしまう。レイフはそんな妻に心が満たされず、いつしかホールの妻スサナを愛するようになるが、恩人であるホールへの気持から、自分の感情にすべてを投げ出すことができない。
 しかし、運命は二人に皮肉なチャンスをもたらす。
 遠くの急患のために夫ホールは妻を残して出かけねばならなくなる。
 女中のヘスターもスサナの父親(シェイクスピア)の病気伺いをかねて、娘のエリザベスを連れて泊まりで出かけることになり、スサナを一人残して行くことを心配しているホールは折よくレイフに出くわして、スサナの事を頼む。
 レイフは親友の屋敷に妻と一緒にスサナを誘う。レイフにとって妻が一緒に食事をすることなど考えられもしないことだが、今はただスサナを誘い出すだけがすべて、スサナもレイフの誘いの言葉だけで全てが十分である。
 しかしながら、約束の時間が過ぎてもレイフは現れず、スサナは独りで食事をした後、夫が不在の時いつもやっているように、ラテン語の学習と薬草の研究にふける。
 そこへ、真夜中になってレイフが塀を乗り越えてやって来て、満たされぬ心の二人はいつしか肌を許し合う。
 しかし、レイフは敬愛する隣人ホールを裏切ることが出来ない。スサナは、尊敬や敬愛は恋愛とは別だと言ってレイフを求める。スサナにとっては、夫への尊敬、敬愛の念も真理なら、レイフへの愛も真理である。それは二者択一ではなく、両立するものである。だが、レイフには両立しない。葛藤しかない。
 二人が愛し合おうとしているその矢先、帰ってくるはずのない女中のヘスターが、ホールの弟子ジャック・レインと一緒に帰ってくる。ジャックというのが、どうしようもないほどの貴族の放蕩息子で、その為ホールからも暇を出されるほどの悪である。
 ヘスターは、レイフが慌ててその場を逃れて塀を乗り越えて立ち去るのを目撃してしまう。
ジャックは、スサナが自分の為に薬草を調合しているという、そのテーブルの上にあるものを見て疑問に思う。
 それは淋病の治療に使用する器具と処方薬だったからである。
 スサナのジャックとヘスターへの言い訳が後日の思わぬ災難を招くことになる。
 ジャックは居酒屋「大熊亭」で、スサナとレイフの不倫の関係と、スサナが淋病を患っていることを言いふらす。
 このことを親友の手紙で知らされたホールは、妻スサナの潔白を明かすべく、教区裁判の法廷に持ち込むことを提唱する。
 神の前では真実のみしか証言できないことから、スサナはあれこれ口実を設けてはジャックの虚偽の告白で決着をつけようとするが、結局教区法廷へと持ち込まれる。
 ここらあたりのやりとりは、サスペンスに富んでいて劇的な緊迫感を与える。
 スサナは夫ホールに、ジャックの父親にジャックの虚偽の告白をさせるべく働きかける。ホールは良心に背いた行為に悩みながらも従う。
 いよいよ教区裁判の当日。当のジャックは法廷に現れず、パリ―司教によってスサナの潔白は証明されたとの判決に一安心したのも束の間、法廷裁判官としての司教代理ゴーチェによって厳しい尋問が開始される。
 パリ―司教がカトリックの雰囲気であるのに対して、ゴーチェ司教代理は清教徒的である。
 ゴーチェの尋問は峻烈を極め、真実を告白せざるを得ないように迫ってくる。
 しかし、スサナにとっての真理とは、人を生かすためには自分の心に忠実でありさえすれば、たとえ嘘をついても許されるものである。
 レイフが敬愛する隣人ホールを裏切ることが出来ないという気持ちに対して、スサナは万人に必要とされる医師としてのホールの尊厳を保つためにも、ホールを必要とする人々の為にも、その名誉を保つために嘘が必要であると説く。
 神を前にして嘘の告白が許されるものなのかどうか、そういう大きなテーマを含んでいる。
 だが、この解答は用意されているように思われる。
 女中のヘスターは、女主人のスサナからその日の行動について嘘の供述を求められ、何も覚えていないことにするが、ゴーチェはすべてを見透かしている。
 ゴーチェは、ヘスターが神に誓っての供述をすることを迫り、もう絶体絶命かにみえたスサナの真実。
 しかし、ヘスターはゴーチェの追及に対して、一つ一つ、淡々と嘘の供述で返していく。
 ヘスターの期待に反した供述に、ゴーチェは神をも恐れぬ輩と罵りながらもスサナに無罪放免を言い渡す。
 ヘスターは言う―「神さまがおっしゃったの、嘘をついてもいいと」。
 こういう見方で観てくると、この劇は宗教的な問題を提起しているようにもみえる。
だが、この劇が興味深いのは、何といってもシェイクスピアの長女と、シェイクスピアのおかげもあって後世に名を留めている医師ジョン・ホールとの間に、本当にあった事件をもとにして作られた劇だということである。
 しかもこの事件はシェイクスピアがまだ存命中の1613年、場所はシェイクスピアの生まれ故郷であるストラットフォード・アポン・エイボンで本当に起こった事である。
 シェイクスピアの長女スザンナが、ストラットフォードのトリニティ教会で仕事熱心で生真面目な医師ジョン・ホールと結婚式を挙げたのは、1606年6月(新郎33歳、新婦23歳)のことである。
それから7年、一人娘のエリザベスに恵まれ、幸せな家庭生活を営んでいたスザンナに、当時23歳のジョン・レイフという若者が、スザンナが淋病にかかっている、おまけに所帯持ちの小間物商人レイフ・スミスという男とあやしい仲だと言いふらした。
 スザンナはジョン・レイフを名誉棄損でウスター大聖堂の教区法院に告訴した。
 作者ピーター・ウエランは、当時の新聞でこの事件に関する小さな記事を発見し、それを膨らませてこの劇を書いたという。
 劇の中では、その淋病の治療に用いる器具の事でジャックに言いふらされることになるのだが、スサナがなぜそのようなものを持ち出していたかは、実は父親シェイクスピアのためであったことが明らかにされる。
 ロンドンの演劇界から隠遁したシェイクスピアも、今は病をかこつ身となっている。スサナはその症状から、若いころからロンドンで勝手気ままに過ごした父親の当然の帰結であるかのように、その病気が淋病であることを疑っているのである。
 スサナは父親思いで、父がいるときは、家が和やかな雰囲気にあったと話す。
 その父も今は重病で、ついには娘婿の世話になるべくニュー・プレイスの館からホール夫妻の屋敷に運ばれてくる。シェイクスピアその人は結局最後まで姿を出さないのであるが、すぐ身近にいるような、そんな存在として扱われている。
 司教代理のゴーチェが清教徒の趣を伝えるのは、スサナを演劇人シェイクスピアの娘であるがゆえに嘘つき呼ばわりするところなどに現れている。
 この2時間半の劇を濃密な効果に高めているのは、とりもなおさず、その配役陣。
 スサナにはシェイクスピア劇にもなじみ深い三田和代。女中ヘスターは文学座の山本道子。スサナの恋人役の小間物商人レイフに青年座の山本龍二。ジャックは文学座の清水朋彦。ジョン・ホールは有川博、パリ―司教は劇団昴の内田稔。ゴーチェは文学座の瀬戸口郁。それぞれが持ち味を活かしてのアンサンブル。
 この日は台風3号の影響から、帰路は土砂降りの雨の中ながら、最高に高揚して満足な気分で家路へと急いだ。

(作/ピーター・ウエラン、訳/青井陽治、演出/西川信廣、7月7日(金)、俳優座劇場にて観劇)

 

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