高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   自転車キンクリートSTORE公演 『マクベス』           No. 1999-019
空白

開きの暗転から、腹を抉り、耳をつんざくような轟音とともに、戦の場面。
兵士たちが入れ替わり立ち替わり現れては殺戮を繰り返すこと数分間。
そしてついにマクベスが血刀をさげて登場し、挑んでくる兵士たちをなぎ倒す。
意表を突く開幕とは裏腹に、全体の印象は、暗さ、闇の深さを感じさせない。
どこか明るいトーンがある。
現代的なマクベス、これを今風というのであろうか。
おおよそ抱いている印象とは全く異なった演出の『マクベス』であった。
解釈としても面白い試みが見られた。
まず、登場人物の設定について―
この劇団では「若」と呼ばれているようであるが、佐々木蔵之介演じるマクベスをはじめ、マクベス夫人の印象がシェイクスピアのイメージと異なり、どうしようもない違和感を覚えた。
極めつけはマクベス夫人。マクベスからの手紙を受け取って読む場面では、バスローブ姿にバスタオルを肩にかけて、新婚の新妻といった趣で登場し、手紙を読む声も今どきの女の子そのままである。
シェイクスピアの台詞の持つ凄みと台詞の言い回しの段差がありすぎて、頭の古い自分などはいらいらしてきた。
バンクォーなどもどちらかといえば道化役である。
ふざけや茶化しが多く、ひょうきん過ぎて重々しさがない人物となっている。
3人の魔女たちは、いたずらものの三姉妹となっている。
と言っても長女役は男性が扮しており、しかもその髪型をはじめとする印象は、オウム真理教の浅原彰晃のイメージであった(あるいは意識的にそのイメージをかぶせている?)。
次女と三女はボケとツッコミ役である。
この3人の魔女が明るく見えるのは、一般的な魔女のイメージの黒い衣装ではなく、真っ白な衣装を着けているせいもあるだろう。
この魔女たちは劇の進行の傍観者として始終舞台のどこかにいて、魔女の役だけでなく、時には長女が門番の役をこなし、次女がマクベス夫人の侍女役に扮したりする。
魔女の長女役の岡田正に言わせると、魔女のイメージは3人組歌手のキャンディーズであるということで、そのせいもあってかオキャンな感じであった。
この魔女の道化的な雰囲気が、劇全体の構造をも道化的にしていた。
人物設定で興味深いのはレノックスの扱いで、片足が不自由でびっこを引き、その役どころは権力者の幇間として、ダンカンが権力の地位にあるときはダンカンに調子を合わせ、マクベスが権力を握ると彼のおべっか役となる。そしてマクベスの落剥が見えてくると素早くマルコムの側にすり寄って追従の言葉を吐く。
ロスの設定もポランスキーの映画の解釈同様、時の権力者の追従者、裏切り者として演出され、バンクォーを殺害する殺し屋たちのもとに第三の暗殺者として現れ、マクダフの家族を襲う暗殺者たちの陰の人物として嬰児の殺害にも自ら手を汚す。
このように人物設定、人物解釈に興味深さがあった。
しかしながら、その役どころの演出については、馬鹿々々しさを通り越して、腹立たしい苛立ちすら感じざるを得なかったというのが偽らざる印象である。
ところが、この『マクベス』が当日の若い人たちにとっては意外と好評なようであった。
その一つの理由として非常に分かりやすい、と言っている若い女性の声が聞こえた。
ついでながら、当日の観客は若い人がほとんどで、シェイクスピアの『マクベス』を見に来たというより、自転車キンクリートの公演を見に来たのが目的といった方が正しいようである。
個人的には不満も多い演出であったが、自分の頭の切り替えも大いに必要なのかなとも思わされたという点では自分自身に刺激を起こさせるよい起爆剤でもあった。

(訳/小田島雄志、構成・演出/鈴木裕美、99年12月11日(土)19時開演、
全労済ホールSPACE ZEROにて観劇。チケット:4800円。座席:C列17番)

 

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