高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   蜷川幸雄Xナイジェル・ホーソンの『リア王』            No. 1999-016
空白

 蜷川幸雄がロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを引き連れて、彩の国さいたま芸術劇場に凱旋してきた。
 凱旋してきたとしか言いようのないほど強烈で、衝撃的な『リア王』であった。
 演出そのものはむしろシンプルでオーソドックスなもので特に奇をてらったものでもない。
 話の展開もシェイクスピアの原作に忠実といってよく、全体を総括して言えばまったく正統的な演出といえる。
 シェイクスピアのオーソドックスな台詞劇を蜷川幸雄はヴィジュアルなものに作り上げ、スペクタクル的な大道具を使っているわけでもないのに、シンプルな能舞台のイメージをあしらった背景が無限の空間の広がりを与え、すごく大きな印象を与える。
 舞台装置には能舞台の松の絵が大きく描かれている。
 蜷川によれば、松はヨーロッパでは生命の木であり、日本人にとっては能舞台の鏡板の松羽目の松であり、その松が描かれた扉が開いて遠近法でのパースペクティブになるのも、ヨーロッパと重ねるという工夫である。
 奥行きの深い舞台がそのことを可能にしている。
 一つ一つを取ってみれば特に驚くべきものはないが、それが重層的な意味を背負って総合的な働きをするとき、とてつもなく大きなものになる。
 開幕は、時を告げる鐘のような響きをもって始まる。
 中央には王座の椅子、道具立ては至ってシンプルである。
 ケント伯とグロスター伯、それにエドモンドが登場し、この3人の会話に続いて鏡板が開かれ、リア王が一同を連れて勢いよく登場してくる。このテンポが小気味よい。
 蜷川幸雄は世紀末におけるリア王をどのような意味に仕立て上げようとしているのであろうか。
我々自身にその解答を見つけ出させようと仕向け、挑んでいるようである。
 サー・ナイジェル・ホーソンのリア王はシェイクスピアの台詞通りのリア王で、余分な解釈は加えられていない。
 しかしながら、ちょっとしたところにどきっとするような工夫が施されている。
 その例として、第1幕第4場におけるリアと道化の会話を松岡和子訳で説明すれば、「くだらん、何の意味もない」と言った後さらに「なんにもなければなんにも出てこない」と続けられるが、舞台ではここで’Nothing can be made out nothing’の’Nothing’と言ったところで台詞が一瞬止まる。
 これはリアがコーデリアに対して言った’Nothing will come of nothing’を思い出してのためらいであることを感じさせ、その微妙な呼吸が台詞を聞いていてギクリとさせるすごさがある。
 嵐の中のリアの所作も極端な演出はなく、嵐の表現もある意味では原始的ともいえる演出で、落雷の音を天井から石を落としてその音の響きを使って表現しているが、これが実に効果的なショックを与える。
 石は惜しげもなく落とされ、小さな石の時には遠くの落雷に聞こえ、面白く感じた。
 大げさな道具立てはないといったが、出された道具には芸が細かい。
 ゴネリルの城で、リアと配下の騎士たちが狩りから戻って獲物を吊るすとき、その獲物の血を舞台の上で絞り出し、今狩りから帰ってきて獲物を処置しているという感じをうまく出していたのもその一例である。
 血といえば、エドモンドが兄のエドガーと戦って自分の腕に見せかけの傷をつける時にも、腕からリアルに血を滴らせる。
 また、コーンウォール公がグロスターの目を抉って眼球を取り出す場面で、その眼球を掌で握りつぶすとき、血が滴り落ち、グロスターの顔面も血だらけとなる。
 一歩間違えばグロテスクであるが、リアルさとグロテスクさが紙一重となっている。
 リアルさとグロテスクさを象徴するのが月の色。
 はじめ平穏な黄色の満月が、嵐となり、情勢が不穏になるにつれて赤い月へと変貌していく。
 堀尾幸男の舞台美術とならんで見逃せないのが、小峰リリーの衣装と、宇崎竜童の音楽。
 これらが三位一体となって舞台効果をさらに高め、強烈なイメージと、深い印象を与え、蜷川の舞台は総合芸術としての哲学を感じさせる。
 演じる俳優陣については、オーディションで選ばれたRSCの総勢24名のキャスティングの豪華さが圧巻である。
 固有の名前を持つ登場人物については一人一役で、医師や騎士など名前を持たない登場人物のみ一人二役、三役をこなしている。
 主役のリア王を演じるナイジェル・ホーソンは70歳で、俳優歴50年というナイトの称号を持つ英国の俳優であるが、面白いことに、彼にとってRSCでシェイクスピアの作品を演じるのはこの公演が初めてであるという。また、ストラットフォードの舞台を踏むのも今回が初めてだという。それだけに手垢のついていないリア王とも言える。
 今回の公演に当たって、エイドリアン・ノーブルから彼にリア王をやってくれないかとの電話の依頼に、「演出家は誰?」と尋ね、「蜷川幸雄」だというと、OKの即答をしたという。
 その彼が言う蜷川幸雄のリア王観は、<絶望的な間違いを犯した王が、自分自身を発見する物語>である。
 ナイジェルのリア王観も、ピーター・ブルックが上演した『リア王』の<荒涼としたイメージ>は、21世紀を前にして古くなったのではないか、ということで、蜷川幸雄の演出に期待するものがあっての参加である。
 陰惨たる絶望の『リア王』ではなく、希望を感じる『リア王』ではなかったかと思う。
 RSCで『じゃじゃ馬馴らし』のキャサリンを演じたシャーン・トーマスが貫録たっぷりに<炎>のゴネリルを、リーガンには<氷>のように冷たい貴族的風格のアナ・チャンセラーが演じる。
 コーデリアは『十二夜』のヴァイオラを演じたことのある若手のロビン・ウィーバーが初々しい印象を与える。
 ケネス・ブラナーの映画『世にも憂鬱なハムレット』で主演したエドガー役のマイケル・マローニーは熱演であった。
 一人一人を紹介すればきりがないが、公演のプログラムには一人一人の一言インタビューが記載されており、その質問に対する回答が実に楽しく、プログラム代1500円という高さの腹立たしさを幾分相殺してくれる。
 質問項目は、
@リアその人にシンパシー(共感・同情)を感じますか?
A『リア王』の物語をあなた流の言葉で表現すると?
B今回のプロジェクトは、あなたに何をもたらすと思いますか?
ということで、Bの質問で一様に代弁されるのではないかというレイモンド・バウワーズ(医師・従者役)の回答を紹介してみると、
 <いままで経験したことのないやり方なので、自分にとってどんな成果が得られるか、まだわからないな。言葉を中心としたイギリスの演劇に長い間親しんできたので、蜷川さんのような優れたヴィジュアル・センスを持つ人の舞台が素晴らしいものだということは分かるけど、イギリスとはやり方も全く別のものだと思うんだ。まだ奇妙な感じがするし、正直混乱している>
 他の俳優がどちらかというと蜷川演出に肯定的に参加しているのに対し、バウワーズは戸惑いを率直に表しているだけに本音の代弁を感じる。
 本公演は9月22日にプレビューが上演された後、23日を初日に10月11日まで16公演が彩の国さいたま芸術劇場で上演された後、10月25日から11月20日までバービカン・シアターで24公演され、12月24日から2000年2月26日までストラットフォードのロイヤル・シェイクスピア・シアターで43公演が予定されている。
 初日の公演のチケットが入手でき、当日、たまたま日英の招待客一行がすぐ斜め後ろの席にいた。
 ナイジェル・ホーソンのリア王に涙が出た。
 おそらく20世紀最後を飾る代表的『リア王』の一つにあげられるのではないだろうか。

 

(演出/蜷川幸雄、99年9月23日(木)14時、彩の国さいたま芸術劇場・大ホールにて観劇、
チケット:(S席)10000円、座席:1階、H列8番)

 

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