高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
    『胡桃・私が愛したハムレット』                  No. 1999-004
空白

 この劇は役者の夢、演出家の夢の裏返しの欲求と言える。
 この芝居のキーワードが<胡桃>にあることは間違いなく、『ハムレット』の中の台詞とともに多重的に作用している。すなわち、第2幕第2場のハムレットの台詞、「俺は胡桃の中に閉じ込められても、無限の宇宙を支配する王者だと思っていられる―悪い夢さえ見なければ」に現れる<胡桃>が意味する多重性である。
 3年前、『ハムレット』の公演の前にハムレット役の羽仁剣一郎は舞台稽古で頭を強打し、記憶を失う。
 記憶喪失後の剣一郎は幼児返りをした彼の面倒一切を、ガートルード役を務めていたかつての恋人武藤裕子が見ている。
 幼児返りした剣一郎にハムレットの役柄が消えずに存在しているのを見て、裕子は昔の仲間たちによる『ハムレット』の芝居の再現を思いつき、かつての自分たちの劇場でそれを試みる。
 そこでハムレットという役柄の重圧に圧し負かされていく剣一郎の姿が明らかにされていく。
その重圧から逃れたいという欲求が頭を打つという事故で記憶喪失となり、幼児返りを引き起こすことになる。
 しかし、一座の中でハムレットを演じられるのは剣一郎のみで、本番を代役で開けた初演は散々なものとなり、結局初日で打ち切りとなる。
 一座は解散し、ハムレットの代役を務めた、本来はホレイショー役であった淳平は劇の失敗から自信喪失で立ち直れない。
 『ハムレット』の芝居の再現中、剣一郎のかつての人間性が暴露されていく。
  利己的で、傲慢で、女たらしで、鼻持ちならない人間であったが、それでも3年後にかつての仲間が彼の記憶を呼び戻そうと集まってくるところを見ると、憎みきれない存在であったこともうかがえる。
 そんな仲間たちによる『ハムレット』の芝居の出足は学芸会にも等しい出来であったが、剣一郎はそれでも台詞の断片を無意識に語り、次第にハムレットとしての記憶を取り戻していく。
 ハムレットの狂気と剣一郎の記憶喪失、その二重的類似性が、狂気のハムレットが正体なのか、正気のハムレットが本来のハムレットなのかを問いかけてくる。
 同様に『ハムレット』劇の中の剣一郎も、記憶喪失者とハムレット役者の両方に振り子のように揺れる。
 <胡桃>の中に閉じ込められているのは、ハムレットか剣一郎か?いな、劇を観ている我々自身ではないのか。
 記憶を取り戻したハムレット役の羽仁剣一郎を演じる榎木孝明と、ガートルード役の武藤裕子を演じる旺なつきの演技は力み過ぎの感があった。
 ガートルードの寝室での二人の抱擁と接吻は親子というより恋人同士のそれであったのは興味深かった。
 全体的な硬さをラッパ屋の俳優・福本伸一(オフィーリアとギルデンスターン役)と木村靖司(レアティーズ、ローゼンクランツ役)が息を抜いてくれた。
 この芝居は、演出した大和田伸也のハムレットへの思い入れの産物であると言える。
 <私が愛したハムレット>がこの劇の底流にあるが、<私>はどのように、また、なぜハムレットを愛するのか―そして観ている自分もハムレットの不可思議さを愛する、不可思議のままに。

(作/横山一真、原案・潤色・演出/大和田伸也、東京グローブ座プロデュース公演、
99年2月7日(日)14時、 チケット:(A席)7000円、座席:1階C列12番)

 

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