高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   NINAGAWAマクベス                     No. 1998-017
白背景10

 チケットを予約したのが5か月前の6月のことで、予約してから半年近く待ちに待った。
 東京圏での公演としては1987年の帝国劇場以来11年ぶりという。
 舞台は周知の通り全体が仏壇構造で、舞台美術の妹尾河童の言によればこの舞台を作り上げるに当たってありとあらゆる仏壇を見て回った結果、地域、宗派による仏壇に差異があることを発見し、『マクベス』における舞台作りにおいては特定の宗派の仏壇ではない、仏壇という概念の抽出物で設定したという。
 観客席の明かりが消える開演前、2つの観客席通路を腰が折れ曲がった老婆が二人、舞台正面に向かってとぼとぼと歩いて進み、自分の横を通り過ぎたときには観客の一人だと勘違いした。
 老婆二人は仏壇の前にたどり着くと、仏壇に向かって拝み始める。
と、そのとき、寺の鐘が鳴って舞台は開演となり、二人の老婆はそのまま舞台の両脇の袖に分かれ、舞台が終わる最後までその場に座ったまま、弁当を開いたり、手編み物をしたりして過ごす。
 舞台はこの老婆の存在を無視した世界で展開されていくが、このことは、所詮この世の出来事は亡くなってしまえば仏壇の中で踊っていたに過ぎないということで、シェイクスピアのこの世はすべて舞台ということを仏壇に置き換えて表象したものだということを悟る。
 舞台は仏壇で象徴されるようにまったく日本的で、マクベス以下すべて侍の衣装で、背景も安土桃山時代を思わせるような絢爛たるもので、散りゆく桜が舞台を一層華やかなものに強調する。
 外見とは裏腹に話の展開は翻案ではなく、名前すらも日本の侍の衣装でありながら原作通りの名前で登場する。
しかもそこに何の違和感も感じさせない。
 仏壇の内側に3人の魔女が登場し、「いつまた三人、会うことに?雷、稲妻、雨の中?」で始まる魔女の台詞の口調は歌舞伎調である。
 3人の魔女と現実世界のマクベスらの登場人物との違和感をどのように解消するか、あり得ない世界を融合するのにこの魔女の台詞を歌舞伎調にしたのは正解ではないかと思う。
 魔女は異世界の存在であり、したがってその喋り方を一般の人間とは区別するというのは大いに注目すべき着眼点だと思った。
 魔女の所作も多分に様式化されたものであったが、劇全体が一つの様式美に包まれていた。
マクベスの北大路欣也は期待通り楽しませてくれた。
 黒澤明監督の『蜘蛛巣城』の三船敏郎演ずる鷲津武時と比較してみるとき、鷲津武時は自分に反逆して攻めてくる敵に対して滑稽なほど落ち着きなく、びくついて、せかせか動き回るが、それに対して北大路欣也のマクベスは、どちらかといえば沈着で落ち着いた感じを与え、同じ時代劇設定ながら印象がずいぶん異なるものだと感じた。
 栗原小巻のマクベス夫人は、この役をやるために生まれてきたのではないかと思うほどに素晴らしかった。
 美しさと妖艶さを併せ持ち、それがマクベスを凌いでダンカン王を殺害に導くときの凄さとなる。
 マクベスがコーダー王への昇進と王位への約束の予言に有頂天になって自分の城に帰還するとき、それを迎えるマクベス夫人の色気とエロティシズムを栗原小巻は発散する。
 見ものは夢遊病状態で空想の中で手を洗う場面である。その手は、別の生き物のような動きをし、それ自体が独立した存在のようで、凄味とは多少異なった妖艶さがあった。
 バンクオーの瀬下和久、マクダフの坂口芳貞、ダンカンの勝部演之らのベテランと、蜷川組の常連ともいうべき大石継太、門番の大富士などで固められたキャスティングはそれなりの手堅さ、重厚さはあるものの、全体としては緊張感に欠けて、途中何度も睡魔に襲われこっくりしてしまった。
 それに、これは会場のせいかもしれないが、台詞がはっきり聞き取れない部分があったことと、声が割れているというか、くぐもっているというか、そんな場面が何度かあった。

 

(訳/小田島雄志、演出/蜷川幸雄、舞台美術/妹尾河童、
1988年11月22日(日)13時開演、 川口市リリア・メインホールにて観劇。
チケット:10000円、座席:(S席)1階19列22番、プログラム:1000円)

 

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