高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   笛田宇一郎の『リア王』                     No. 1998-015
白背景10

 演劇の可能性への挑戦ともいうべきエネルギーのダイナミズムにすっかり心を捉われてしまった。
 21世紀を目前に控え、演劇は進化しうるかという可能性を探る試劇、果敢なる挑戦を感じた。
 劇場というより稽古場ともいうべき小さな空間で、客席も40数名ほどだが満席状態であった。
 それは舞台稽古を観ているような感じでもあった。
 劇場名のプロトにはギリシア語でfirstの意味があることから「最初の劇場」という意味があるのも「さきがけ」としての自負、気負いを感じさせる。
 平土間の舞台中央には大きめのソファー椅子が置かれ、上手には結婚式の披露宴で使うような衣装を手直しした舞台衣装をまとった女性が座して、平土間に両手を前に投げ出してその手を組み、そこに頭を埋めたまま開演するまでずっとそのままの姿勢を崩さないでいる。
 開演と共に舞台は暗転し、やがて日本のわらべ歌、「さくら、さくら」の音楽が聞こえてくる。
舞台下手より、素袍(すおう)のごときものをまとったリア王が能舞台を思わせる所作で登場してくる。
 出演者は全員で4名、リアに笛田宇一郎、コーデリアに大塚由美子、道化に大江昭彦、それに開演前から舞台に座したままの女性に菅野裕子。全員が今回初めて観る俳優である。
 『リア王』という作品は媒体に過ぎず、リアという人物の狂気を通して「存在論」が語られ、冒頭から原作とは異なった台詞から始まる。
 まず「愛」について語られ、愛とは何か、情熱とは何かということが熱っぽく論じられ、ついには「意識論」へと発展し、そこからおもむろにリア王の王権譲渡と国土の3分割が提示される。
 登場のないゴネリルとリーガンの声は鳥(鳶)の鳴き声で表現されるが、それは映画『ゴダールのリア王』の中の金属音のようなウミネコの鳴き声を想起させるものであった。
 この二人の姉妹の声を鳥の鳴き声で表象したのは暗示的で、象徴的な効果を感じさせるものがあった。
 登場人物の台詞は調教されたような様式化された言い回しで能舞台を思わせる。
 笛田宇一郎の台詞の語りは、太く鍛え抜かれた声で腹の底まで染み入るようであった。
 リアは現代における狂気を表象した象徴的存在であり、存在が狂気であるのか、狂気が存在なのか、リアは突然自己を喪失し、リアを演じることを中断する。
 そこでリアは現実に引き戻された「男」となり、再び「存在論」の展開が始まる。
 存在とは高邁なものではなく、「糞をするから存在する」のだと存在を下等な位置まで貶めることで「存在」への新たな問いかけを提示する。
 「愛」については、その「男」の愛の対象のコーデリアが「緑の女」とすることで表象される。
リアが「男」に戻るきっかけは、それまで無言のまま化粧をしたり、歯を磨いたり、ソフトクリームを舐めたりしている舞台上の女の「いつまで続けるつもり、そのお芝居」という言葉で、リアが現実に戻されることで「男」に戻る。
 女はその男の妻のようでもあり、そうでないようでもあり、男の台詞は女の問いに答えて喋るようでもあり、男の独白のようでもある。
 男は現実の世界にいるのか、狂気の世界を彷徨っているのか、混然としてくる。
 「存在論」は形而上学的というより直観的で象徴的なレトリックの表現となって、だんだんついていくのが難しくなっていく。
 リアの狂気というより男の存在そのものが狂気となり、リアは狂気の媒体として演じ続けられる。
狂気を通過した男は再びリアの演技に戻る。
 そこではコーデリアの死が待っており、彼女は死を通過することで「緑の女」に戻り、戦場の大地で彼女に凌辱を加えた男たちに復讐することを誓う。
 男たちが股間を封印してしまうことを宣言すると、緑の女はそれまで着ていた白い寝巻のような着物を脱ぎ棄て、真っ黒な革のベストとパンツ姿となって不良少女を思わせる格好となる。
 この劇は「不条理劇」であることを感じたが、それを裏付ける劇のキャッチフレーズに「ベケットとアルトーを媒介者とする『リア王』の世界」とかかげていることからもそれは察せられる。
 パンフレットの「21世紀演劇宣言」の末尾に書かれた「21世紀とは“演劇”の本質力において、退化の極みから進化の方向を、人間が見出せるかどうかが問われる世紀である」が、この劇の在り様を如実に語っている。

(構成・演出/笛田宇一郎、10月3日(土)、高田馬場・プロト・シアターにて観劇)

 

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