高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   RSC公演『ロミオとジュリエット』                No. 1998-012
白背景10

 ロミオとジュリエットの愛をどのように描くか、現代において悲劇に終わる二人の純愛はどのような意味を持つのか。
 演出はその表現においてメッセージになり得るか。
いま、NHK教育テレビの人間大学『舞台を紡ぐ』で、演出家蜷川幸雄はその思いを熱く語る。
 蜷川は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を疾走する愛の物語として「愛の速度」で捉え、現代においてもはや喪失したかに思われる恋愛の純粋性を「愛の速度」として我々にアイロニカルに突き付けてくる。
 マイケル・アッテンボローの『ロミオとジュリエット』は、疎外された社会の中で富豪的な要素を排除し、情熱や感情を重視した作品に仕上げたという。
 現在(いま)を想起させるために時代設定もあえて現在(いま)ではなく、1900~10年代にして昔のままの面影を残す北イタリアに場面を置いている。
 簡素で簡潔な舞台で、舞台中央には二間四方ほどの台座があり、これがマーケットの広場の一部を示したり、洗濯場となったり、ロミオとジュリエットの新床となったり、死体置き場となったりする。
 壁面は教会の内壁や、邸の内装となったりし、迫り出した窓はバルコニーとなったりする。
 余分なものは極力そぎ落とした舞台装置である。
 コーラスによる開幕のプロローグでは、雨の中で傘をさしての葬儀の中、対立する両家の不運の星の元に生まれた二人の恋人たちの運命が語られる。
 この始まりは、終わりの運命を予兆し、始まりと終わりが円環状となっていることを暗示する。
 マーキューシオの乳母に対する台詞はbawdyな意味を含んでいるが、それを演技の中で見事に体現しており、演出は解釈であることを実感した。
 ’Tis no less, I tell ye, for the bawdy hand of the dial is now upon the prick of noon.
 この台詞の演技をそのものずばりで体現していた。
 前半部に比べて後半ではかなり場面の省略があり、そのことに少し物足りなさを感じた。
特に、ロミオが毒薬を買い求めた場面が省略されていて、ジュリエットの仮死状態を見て死んだものと思って毒を飲んで自殺する場面では話の筋を知らない観客が、ロミオが死んだことが分かっていなかったという嘘のようなホントの話を伝え聞いた。
 ロミオ、モンタギューを黒人の俳優が演じており人種対立の構造を含ませているかとも考えたが、ティーボルトも黒人が演じているので人種問題として短絡するのは誤りだろう。
 愛の激情は、修道士ロレンスの台詞’Wisely and slow, they stumble that run fast’や’Too swift arrives as tardy as too slow’に象徴されている。

 

(演出/マイケル・アッテンボロー、1998年5月31日(日)13時開演、
東京グローブ座にて観劇。
チケット:8000円、(座席)A席、1階Z列9番)

 

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