高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   トレバー・ナン監督・映画 『十二夜』             No. 1998-011
白背景10

 嵐の夜、メッサリーノに向かう一隻の船の中で、双子の兄妹が女装をして歌を歌っている。
歌い終わって仮装を解くと、二人は女性と思いきや、なんと鼻ひげを生やしている。
 兄が妹の付け髭を取ったところで船が暗礁に乗り上げて大きく揺れ、やがて船は遭難し、兄妹は海に沈んで別れ別れになってしまう。
 この余興での、兄が妹の付け髭を取る場面が終盤の兄妹の出会いで再び、兄のセバスチャンが妹のヴァイオラの付け髭を取り外す場面とシンメトリカルに重層することになる。
 嵐のおさまった後、ヴァイオラは船長一行とイリリア公国にたどり着く。
 この一部始終を丘の上から眺めている人物がいる。それが道化のフェステ。それは『テンペスト』で自ら嵐を起しておさめたプロスペローのようで、すべてを見透かしているような、静かな覚めたまなざしである。
 ヴァイオラは船長に頼んでイリリア公国の公爵に仕えるべく、その長い髪を切り、男装する。
 ここまでの間に、オリヴィアが父である伯爵を亡くし、今また最愛の兄を亡くしたこと、そのオリヴィアに公爵が求婚して受けいれられないでいることが、船長の口を通して語られる。映画ならではの導入部である。
 そうして場面は一転して、原作の第1幕第1場のオーシーノ公爵の台詞、'If music be the food of love, play on'へと入っていく。
 トレバー・ナン監督は映画の『十二夜』演出にあたって、「わたしたちはここで秋を思わせる作品を作ろうとした。つかの間の若さ、性の違いをめぐる謎、偽善、孤独、真実と向き合うこと。 そうしたものをシェイクスピアの言葉を借りながらも、まるでこれが新作であるかのような印象を与えたかった」と語っている。
 ジェンダーがモチーフとなっているが、全体のトーンが秋の風景に染まって、喜劇とはいいながらも、抑制のきいた感動的な作品となっている。
 ジェンダーの倒錯、双子の兄妹の取り違えは、皮相的に見ればおよそあり得ないことである。
 アンリアルなものをリアルに感じさせ、本当に起こった事のように思わせることにおいて、この映画は成功していると思う。この映画を二度見て、二度とも同じ場面で泣いた。
 兄セバスチャンが妹のヴァイオラの付け髭を取って妹であることを確信する場面である。
 感動的としか言いようがないほど感動した。
 そこでうまいなぁーと思ったのは、オリヴィア役のヘレナ・ボナム・カーター。双子の兄妹を一時に見て、あっけにとられ、目を真ん丸にして放心してしまった姿が何とも言えず、アンリアルなものを忘れさせてリアルを感じさせた。
 マルヴォーリオは、舞台だと主役を食ってしまうほどに際立った役柄に演出されがちなのだが、全体の調和を損なわず、かつ悲喜劇的人物としてうまく演じていたと思う。セバスチャンとオリヴィア、オーシーノ公爵とヴァイオラ二組の結婚がまとまったところで、復讐を誓ったマルヴォーリオは、トランク一つにこうもり傘をもって一人去っていく。オリヴィアに恋して実らなかったサー・アンドルーも、セバスチャンに男惚れしたアントーニオも、それぞれ去っていく。
 道化のフェステも、プロスペローが魔法の杖を捨て去って普通の世界に戻るように、彼自身の世界へと、一人唄いながら去っていくのが、すべて印象的であった。


(6月3日記)

 

>> 目次へ