高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   新国立劇場公演 『リア王』                  No. 1998-005
白背景10

 劇場に入ってまず、すごいイレモノができたものだと、新国立劇場の威容に感嘆した。
 と同時に、このイレモノを充足させるだけの演出は大変だなと思った。
 そういう意味合いにおいて、中越司の舞台美術は挑戦的で意欲的である。
 その舞台は、半球体の巨大ドームをパイプで骨格を組み上げ、コンテラという粗布のようなシートで覆って作り上げたものからなっている。
 開演と共に、このドームがゆっくりと舞台前面に迫り出してきて、ドームの中にリア王が揺椅子のような背もたれの深い椅子に長剣を手に構えて眠っている。
 リアは突然、ものに驚いたように目覚め、自分は引退して国を三分し、三人の娘たちに譲ると言い出す。
 自分に対する愛情の度合いを試すとき、コーデリアの「言うことは何もありません」という答えに、リアを演じる山崎努の「何もない?」と問い返すまでの間合いの取り方が実に絶妙で心に深く残った。
 老いとは、自分が聞きたい言葉だけしか耳に入らないことであり、耳障りな言葉は怒りを誘う以外のなにものでもなく、リアの頭の歯車が狂ってしまうのは、一番愛していたコーデリアに期待を裏切られたからともいえる。
 山崎努のリアは、権力を持っていたものが、老いてなおかつ頑迷さを加えていく姿をダイナミックに演じ、台詞の合山崎努が間に発する「ハッー」という間投詞が、短気と勘気と怒気の入り混じった頑迷さをよく表していた。
 二人の娘に見捨てられ、嵐の中を彷徨うリアの狂気と狂態は鬼気迫るものがあった。
演じる山崎努にギラギラしたものがあることから、リアの狂気をそのように演じることで凄味が増す。
 乞食姿の気違いトムに扮するエドガーの裸姿同様に、リアも腰のものひとつの裸の姿になって狂態を演ずるという外面的な形以上のもの、狂気と正気の間を彷徨っているがゆえの凄味と哀れさがあった。
 エドマンドの愛を競い合うリーガンとゴネリルの姉妹を演じる余貴美子と范分雀は、今一つ物足りなかった。
 この三人の関係はもっとねっとりとした邪淫さが欲しい。
 嵐の場面ではドームの覆いのシートがはぎとられ、ブリテン国とフランス軍の戦いでは、ドームの骨組みのパイプを一部折れ曲げさせることで荒廃を表象し、半球体のドームの舞台設定と新国立劇場中劇場の空間との調和がよくとれていたように思う。
 『リア王』はその昔、舞台にのせるのが不可能とまで言われたシェイクスピアの作品であるが、このところ『リア王』の上演が相当数続いているのは、どういうことであろうか?
 現代の高齢化社会における老人問題、家族崩壊など時事的な問題が上演に拍車をかけているとも考えられる。
 リアがコーデリアの真摯な言葉をくみ取ることができず、お世辞たらたらの上の二人の娘の甘い言葉にいともたやすくたぶらかされてしまい、傍で見ていているケントや他の廷臣たちにはそれが見えているのにリアにだけ見えないが、そのことに真実味と現実性が感じられてくるのは、自分が馬齢を重ねてきたせいであろうか?!
 鵜山仁の演出、山崎努のリアは、生半可な現代的解釈など無用なストレートな組み立てで迫力を感じ、久方ぶりに骨太いシェイクスピア劇を観た気がした。

 

訳/松岡和子、演出/鵜山仁、1998年1月26日(月)18時30分開演、新国立劇場・中劇場にて観劇
チケット:(S席)7000円。座席:1階10列26番)

 

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