高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   俳優座公演の『ロミオとジュリエット』                  No. 1998-002
白背景10

 実験的な演出であるが、これも期待外れであった。
 演出家の宮崎真子は、今の日本でこの作品を上演するということがどういう意味をもつのか、ということに限定して演出したというが、原作と今の日本の社会の枠組みの相違を条理とか不条理という言葉で区切るということ自体があまり気に入らない。
 ロミオとジュリエットを男女入れ替えてのキャスティングも、その必然性を見出せない。
 ロミオの安藤みどりはまだしも見られたが、ジュリエットの田中壮太郎はひどかった。
 バルコニー場面の「ロミオ、ロミオ、ロミオ」は聞いていて恥ずかしくなった。
 オープニングは開幕の合図もなく、舞台の稽古場風景から始まる。
 劇団員が舞台の上に三々五々集まってきて、上演時間になってもロミオとジュリエット役が現れてこないが、二人を待たずに開幕する。
 開幕直後の場面で、モンタギューとキャピュレットの家僕たちの一騒動の後に現れるロミオの台詞で、自分を「わたし」と呼んでいるのが女性的で違和感を覚えた。
 しかし、場面が移ってからは「わたし」から「僕」に変わっているので、演出の仕掛けの一つかなとも思わされる。
 つまり、ロミオを女性が演じているのを表示するかのように、あえて女言葉で語らせるという具合に。
 宮崎真子は「今回の上演では原作のテキストを一部書き替えることにしました。(中略)社会構造の相違から、原作そのままでは私が日常出会う人間関係や社会に対して有効と思われる上演方法がみつからなかったためです」と演出雑記に記しているが、劇の進行が舞台稽古の流れの中という前提で進んでいるので、時々途中でダメ出しが入ったり、持ち場放棄が出たりする場が挿入される。
 それは最後に表出されることであるが、劇を演じながらも、この、今という時の中で、この劇がどうあるべきか、ということが絶えず考えられているともいえるものであった。
 そういう前提に立てば意欲的な実験作といえないこともない。
 シェイクスピア400年の歴史の中で、原作通り上演された期間の方がむしろ短いのではないかという背景において、今日的意味の上演ということで改作に目くじらを立てるつもりはないが、シェイクスピアの普遍性の今日性を真正面から捉えられないものだろうかという不満もある。
 エンディングにおいて、ロミオとジュリエットを死なせないようにしようという陰の演出家の声で、いろいろな想定が論議されるが、ここらあたりが実験的といえば言える。
 ああ、おいしいロミオとジュリエットが観たい!!というのが偽らざる気持であった。

 

(訳/松岡和子、演出/宮崎真子、1月11日(日)13時半開演、俳優座劇場にて観劇。
チケット:5250円、座席:7列11番)

 

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