高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   アジア版シェイクスピア 『リア』                No. 1997-012
空白

 今年後半のシェイクスピア劇は『リア王』が目白押しである。
 それもなぜか異色の演出が目立つ。
 国際交流基金アジアセンターとBunkamuraとの共同制作になる『リア』(シアターコクーン、9月9日−15日)、同じく6か国から参加する国際共同制作、韓国発多国籍『リア王』(パナソニック・グローブ座、9月26日−28日)、アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)による『リア王―影法師、Who I am?―』(パナソニック・グローブ座、10月29日−11月3日)、英国女優キャサリン・ハンターが演じる『リア王』(パナソニック・グローブ座、11月21日−29日)と続いている。
 その国際交流基金アジアセンターとBunkamura共同制作の『リア』を観た。
 『リア王』ではなく『リア』とした理由を、脚本家の岸田理生は、王という冠詞を持った存在ではなく、老いてのちの生き方の選択を間違えた一人の老人として捉えたかったからだという。
 これはシェイクスピアだろうか?これもシェイクスピアだろうか?という思いで観た。
 「リア王」という形を借りた一つの実験というか、挑戦である。
 シェイクスピアが台詞を聞く劇であるとすれば、これはシェイクスピア劇といえないであろう。
筋の展開にしても大いに異なる。
 しかし、真髄のところでこれもシェイクスピアだと思わせるところがある。
まず、台詞の言葉の問題として、日本語、英語、中国語、インドネシア語、タイ語の5か国語が飛び交う。
 様式としては、リア王には能、リア王の長女は京劇、次女(この劇では『リア王』の三女、コーデリアに相当する)にはタイ舞踊が振り付けられる。
 共演(競演)する6か国のそれぞれの伝統的様式美を維持しながら、シェイクスピアという非アジア的なものを通して、「老い」という普遍的な問題に対して新しい文化を構築しようとする意欲的な挑戦である。
 シェイクスピアの『リア王』には登場しない娘たちの母、リアの妻がここでは登場する。
 その意図するところは、家父長制以外の世界の創出にある。
 アジア世界は父の権威の世界でもある。
 新しいアジアの世界、若いアジアの世界を、古いアジアの世界から切り離して再定義しようとする。
 この試みは、母の存在を拒否し、自らの地位を絶対化するために、父をも殺し、今では全く孤独の存在となって、鳥となって飛んでいきたいと願う長女を、存在を拒否された母が優しく覆い包むというアイロニーによって強化される。
 長女の呟きが、耳に谺(こだま)する―「うしろの正面 誰がいる。うしろの正面 だあれ」
 シェイクスピア的であってシェイクスピアでないのは、『リア王』という作品が媒体でしかないことにある。
 しかし、今日的な意味で「老い」の問題を捉えるとき、普遍的な広がりをもってシェイクスピア的となる。
 という構造的な問題より、伝統芸能であるひとつひとつの、能、京劇、タイ舞踊の固有性と独自な自己主張、それはお互いがそれぞれの国の言葉で語るということからも強調されるが、その不協和をあえて調和させることなく、その差異を生かしながら文化の共存を図っている。
 我々はそれを楽しむことができる。
 その差異を受け手である観客の中で融和させるのか、あるいは不協和なままに奇異なものとして受け取るかは勝手でしかない。
 老人リアに観世流シテ方の梅若猶彦、長女に京劇俳優の江基虎、次女にタイ舞踊家のピーラモン・チョムダワット。
 異色は、道化のナジプ・アリ。シンガポールのマルチ・タレントで数か国語を操り、見事な日本語なので最初は日本人かと思ったほどである。
 時空を超えて、現代から飛び出してきた片桐はいりも、とぼけた存在で個性的に光っていた。

 

(脚本/岸田理生、演出/オン・ケンセン、1997年9月15日(月)14時開演、
シアターコクーンにて観劇。 チケット:(S席)6000円、座席:1階 G列2番)

 

>> 目次へ