高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   スティーヴン・バーコフ演出・主演の『コリオレイナス』        No. 1997-010
空白

身体の中を電流が走りぬけるような戦慄と衝撃を感じた。
 『コリオレイナス』は、同じシェイクスピアになるローマ史劇の『ジュリアス・シーザー』や『アントニーとクレオパトラ』に較べれば、日本人には全くと言っていいほどその名にはなじみが薄い。
 またシェイクスピアの作品としても、どこか特異さを感じさせるものがあり、一般的なものからは程遠い気がする。
 そのせいかどうか、日本人による『コリオレイナス』の上演はほとんど目にしない。というか、出口典雄以外にあるのかどうか知らない。
 しかし、4年前の93年にパナソニック・グローブ座でロベール・ルパージュ演出による『コリオレイナス』を観ており、その時の印象も強烈であったことを覚えている。
 ルパージュの『コリオレイナス』の舞台は、映画のシネマスコープのように横長で平面的にセッティングされた情景で、集約的な感じを与えていた。
 それに対して今回のバーコフの舞台は、張り出し舞台で奥行があり、拡散的で、広がりを感じさせた。
 開幕の様子はシェイクスピアに忠実に始まる。
 バーコフは、言葉=台詞とパフォーマンスによって観客をぐいっと引き付ける。
 台詞を抑えたパフォーマンスの間の沈黙の緊張感―動と静、その対比が言葉以上に語る。
 戦におけるコリオレイナスは、これほど頼りがいのある武人はいない。
 しかしながら平時においては、民衆を信じず、むしろ軽蔑し、彼らにとっては暴君以外のなにものでもない。
 飢饉の状況にあって飽食をほしいままにしている張本人はコリオレイナスであるとして、彼ひとりその責めを負わされ、民衆は彼を倒さんものとして蜂起する。
 ところが時あたかも、宿敵ヴォルサイの将軍タラス・オーフィディアスがローマを目指して攻め立ててきているという知らせが入る。
 コリオレイナスはオーフィディアスを獅子に見立て、自分をその狩人として勇んで敵地へと向かい、コリオライを攻め落とし、その戦功としてコリオレーナスの称号を与えられる。
 またその武勲に対してローマの執政官に推挙されるが、民衆への迎合を嫌うコリオレイナスは、ついにローマを追放される身となる。
 彼の武勲は、まず彼自身の矜持のためであり、また愛する母親のためでもあって、ローマのためではない。
 戦士としての彼の姿とマザコンそのもののコリオレイナスの対極が、英雄の矮小化となって映ってくる。結果的にそれがコリオレイナスの悲劇へとつながっていく。
 ローマを追放されたコリオレイナスは復讐の念に駆られ、宿敵オーフィディアスのもとに奔り、今度はローマを攻め立てる。
 民衆は勝手なもので、追放したコリオレイナスに赦しの憐れみを乞い、原作ではコミニアスに続いてメニーニアスがその使いに立つが、今回の演出では都合によりメニーニアスの役がなく、コミニアスだけがその役を引き受ける。
 しかし、コリオレイナスは聞く耳を持たずすげなく追い返す。
 最後の頼みに、コリオレイナスの母親と妻が説得のために使いに出る。
 母親の説得にはコリオレイナスも折れ、裏切りに腹を立てたオーフィディアスは彼を殺してしまう。
 コリオレイナスは行動の人であり、思考、熟慮の人ではない。
 抑制された緊張の顔とパフォーマンスが軍人としてのストイックさにバーコフがぴったりのはまり役であった。

 

演出/スティーヴン・バーコフ、1997年6月15日(日)14時開演
パナソニック・グローブ座にて観劇。チケット:(A席)7000円、座席:2階M列27番

 

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