高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   デカプリオ主演の映画 『ロミオとジュリエット』      No. 1997-009
空白

 劇場でも映画館でも気になってすぐ見てしまうのが、来ている観客の層である。劇場や出し物によって客層というものが必ずある。それは一つの風景といってもよいものである。
 バズ・ラーマン監督の『ロミオとジュリエット』は、そういった意味では、まずデカプリオのロミオである。
 日曜日の早朝から押しかけて来た観客のほとんどが20歳前後のギャルたち。それもカップルはほとんど見られず、女子が3,4人のグループである。
 ウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を見に来たのではなく、デカプリオを見に来たと言ってもいい。
 シェイクスピアは時代を映す鏡である。
 その時代その時代でのシェイクスピアの姿というものがある。
 今まさに映画界はシェイクスピアの時代ともいえるほど、彼の作品が映画化されている。
 芝居に困れば『忠臣蔵』ではないが、来日したラーマン監督のインタビューで<映画界はシェイクスピア・ブーム。「困ったときの名作だのみ」などとも言われるが、「現代のような不確定な時代にはいつも、彼の作品の普遍性が必要とされてきた。ネタ枯れなんかではない」と反論している。>(朝日新聞、4月28日夕刊)
 今日から見ればシェイクスピアは古典であるが、シェイクスピア当時から見れば、彼の台詞はラップであった、というのがラーマン監督の根底にある考え。
 <シェイクスピアは16世紀のポップ文化の発信源。人口20万人のロンドンで毎晩三千人もの客を集めていた芝居がインテリ御用達の筈がない。彼の作品は大衆のもの>であった。
 シェイクスピアのもつ普遍性を、この現代においていかに身近なものとするか、今も昔も変わらない、そのときどきにおける時代の最先端の感覚、これを伝えようとしているのが、ラーマン監督の『ロミオとジュリエット』である。
 ラーマンの『ロミジュリ』はオープニングから衝撃的である。
 空中からメキシコ・シティをとらえ、場面はガソリンスタンドへと移る。
 モンタギュー家の一族の開放的な気分のアロハ姿。そこへ奇抜な衣装のキャピュレット家の若者たち。
 今にも何かが起こりそうな緊張感。マカロニ・ウェスタンを思わせる二丁拳銃と銃さばき。小気味よいテンポで場面は進展していく。
 ラーマン監督は、ロミオはデカプリオしかない、彼をおいてほかの者では考えられないということで、「たのむ、やると承諾しなくともいいが、やらないと断らないでくれ」と彼をその仕事に引き込んだという。
 ロミオはある意味で史上初の"理由なき反抗者"であり、最初のジェームス・ディーンである、とラーマン監督は思っている。
 ロミオの解釈としても非常に分かりやすく説明づけできるが、デカプリオのロミオが一層その理由なき反抗者の雰囲気をかきたてている。
 そのデカプリオが語る、「映画に関しては、クォリティの高さとオリジナリティが一番重要な要素だと思っている。『ロミオとジュリエット』が今までの映画だったら僕は出演しなかった」と。
 ラーマン監督は、新しい"創造の世界"を求め、シェイクスピアを"映像翻訳"した。
 そしてデカプリオは伝統的な習わしに縛られない、この"創造の世界"に魅了され、そうして現代の若者は、デカプリオを通してシェイクスピアのロミオに魅せられる。
 最後にバズ・ラーマン監督の言葉から。
 <シェイクスピアはすべての人を感動させ、娯楽性に富んだストーリーテラーで、意図的に万人に受けるように書いている。・・・ロミオはどうしてもレオナルド・デカプリオに演じてほしかった・・・ロミオがある意味で史上初の"理由なき反抗者"であり、最初のジェームス・ディーンだと思っている・・・僕はキャストをほとんどアメリカ俳優で固め、有名な台詞をアメリカ訛りでしゃべらせ、これまでのイギリス系のシェイクスピア俳優のパターンを壊した・・・荒々しく、現実的で、情熱的な言い回しで語りたかった・・・ここでやったことは、シェイクスピアを"映像翻訳"することだった>
 シェイクスピアを映画化するということは、シェイクスピアの言葉をも"映像翻訳"することにほかならない。
 そしていま、シェイクスピア劇を時代のズレを感じさせることなく一般の映画を見るのと同じ感覚で見せることの、新たなる挑戦とでもいえるのではないか。

4月27日(日)、新宿ヴィレッジにて

 

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