高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   劇団俳優座公演 No.236 『ハムレット』        No. 1997-002
空白

 グローブ座で劇団俳優座公演の『ハムレット』を観た。俳優座が『ハムレット』を上演するのは17年ぶりで4度目になるという。最初の『ハムレット』は1964年で、演出が千田是也、ハムレットに仲代達矢、オフィーリアは市原悦子。その仲代達矢のハムレット論を彼のエッセイ集『役者』より引用してみよう。
<「ハムレット」といえばだれでも知っている。しかし「どんな役ですか」と聞くと、それほどすらりとは答えにくい・・・つまりハムレットとは、そんな役なのである。様々な国の、様々な演出家や俳優に、様々の創造意欲をかき立てる、素晴らしく骨組みの大きな象徴的な素材である。
<「ハムレット」は、いわばある青年の失敗談だと僕は思う。・・・だから先年、ハムレットを演じた時、僕はその若さにポイントを置いた。若さの持つ純真さや潔癖さや主観性。若さの持つ情熱や狂操やバイタリティ。 若さの持つ短慮や憂鬱や思索的求心性・・・それがハムレットの人間像の、そして青春のイメージの原型だと僕は思っている。
 その仲代達矢のハムレットを僕は知らないが、仲代達矢の映画や舞台をこれまで観てきたななかでの印象から、彼の語るハムレットを感じることができる。
 それに対して今回のてらそま昌紀についてはまったく予備知識もなく、今回はじめてその名を知った。従ってまったく白紙の期待でもってそのハムレットを観た。
 第一印象として、なにか非常にオーソドックスなものを感じた。
 なにをもってオーソドックスというか、これまた難しい質問になってしまうが、特に奇をてらったという感じもなく、それでいて新鮮な、そして清楚なハムレットをてらそま昌紀に見た。
 これはてらそま昌紀のパーソナリティからくるものなのか、演出によるものなのか、そのときは分からなかったが、プログラムで演出家のグレッグ・デールの紹介を読んで納得をした。
 山崎正和の紹介によれば、グレッグ・デールは、もっとも正統的な西洋文化人であり、欧米の知識と芸術の本流によって育てられた演劇人である、という。
 演出そのものがどちらかといえば、まっすぐなストレート玉なのだ。それに対して、てらそま昌紀がまっすぐにハムレットを演じている。それがストレートにグレッグ・デールの演出家としての夢である『ハムレット』の魅力を引き出している。
 グレッグ・デールはいう。ハムレットの魅力は多分、ハムレットのキャラクターそのものにある、シェイクスピアは最もミステリアスではあるが、親しみやすい役柄を創造した。ハムレットはどこにでもいる人、ヒーローになりたくなかったヒーローであり、彼の欠陥が彼をより人間臭くする、と。
 仲代風にいえば、ハムレットはそんな役であり、てらそま昌紀のパーソナリティがそんなハムレットのキャラクターにぴったり合っていたと言える。
 そんな僕の印象が外れていなかったのが俳優座の月刊誌『コメディアン』で分かった。
 てらそまがグローブ座で「オーソドックスなハムレットを」真正面からとらえる態度で向かった自信のほどを示している旨の記事が出ていた。
 僕の場合はあくまで印象としてのオーソドックスであるが、てらそま昌紀が自信をもって臨んだオーソドックスとはどんなものであろうか。それはグレッグ・デールの演出法が一つの答えを示している。 すなわち、「ハムレットの時代に忠実にやることで登場人物を生き返ら」されたんだ。
 あらためて、正当的なるもののすがすがしさなるものを味わった。

 

訳/松岡和子、演出/グレッグ・デール
1月15日(水)、パナソニック・グローブ座

 

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