高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   シェイクスピア・シアター公演 『アテネのタイモン』・他   No. 1996-001
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年明けにシェイクスピア・シアターの作品2作を観た。 シェイクスピアの『アテネのタイモン』とマーク・トゥエイン原作、出口典雄脚色・演出の『ハロー・プリンス』である。 『アテネのタイモン』では劇団8期生の吉田鋼太郎がアテネの貴族タイモンを客演していたが、彼が主演を張ると他の若い劇団員が妙に精彩を欠き、どことなく重ったるくなって、先輩である円道一弥までがなんとなく押された感じを受ける。 吉田鋼太郎の演技・台詞回しは野太くエネルギッシュだが、一本調子で見ている者を疲れさせるところがある。 休憩に入ったところで、中年のご婦人たちの会話を聞いていても同じような印象で、眠くなってしようがなかったと話されていたことから、自分だけの印象ではないようである。 吉田鋼太郎は期生としては古いが在団は3年に過ぎないのに、その割にはこの3年間観てきた中でもシェイクスピア・シアターへの客演が多いようである。 彼を主演に据えると座りの良さがあるかもしれないが、その反面シェイクスピア・シアターのもっている青臭さ、半熟っぽいところが抑えられ、不完全燃焼しているような気がしてならない。 一方、『ハロー・プリンス』は若い劇団員がのびのびと演技しており、疲れさせなかった。 ここでは円道一弥も本来の持ち味を十二分に出し切って楽しませてくれた。 6期生の円道一弥、8期生の吉沢憲は、古株だけに演技にも乗りの良さを感じるが、17期生の大塚英一や細谷健、佐藤弘幸、斉藤芳あたりも、この3年間観てきて、ずいぶんと成長を感じさせる。 特に、大塚英一は著しい成長を遂げ、将来が楽しみでもある。 シェイクスピア・シアターとの観劇の付き合いもかれこれ3年になるが、当初はそれこそ、素人っぽい、青臭いという感じでしかなかったが、若い俳優が育つのを見る楽しみというものをこの頃では覚えるようになった。 ここまで書いてきて、吉田鋼太郎のタイモンの印象が強烈に残っているのを感じた。 それは舞台を観ている時の印象とは異なる、観終わった後の余韻というか、見えない刻印とでもいうような、そんなものが強く残る演技の印象である。 演技というものは一過性で、演じる者にとって二度と同じものはあり得ないし、観る側にとっても消え去るものでしかないが、心のフィルムに強く焼き尽くされた演技というものもあって、それが本人の意識しないところでふっと湧き出てくることがあるものだ。 残念なことは、グローブ座の経営が思わしくなくなって劇団四季の浅利慶太が再建経営されるようになり、従来のグローブ座の雰囲気がなくなったことと、定期刊行の小誌がなくなったことだ。

(『アテネのタイモン』:訳/小田島雄志、演出/出口典雄、1996年1月14日(日)14時、
パナソニック・グローブ座にて観劇。チケット:4000円、座席:1階C列21番)

 

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